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OSHO ビレッシュに語る

ビレッシュによる著書

和尚/マスターと過ごした時間」より抜粋などから

 

OSHO
1931年インドに生まれ、21才で光明(人間意識の究極の開花)を得る。ジャバルプー
ル大学で哲学教授を務めた後、人類の意識の成長のために多 くの人々に語り始める。哲学、仏教、禅、神秘主義思想など古今東西のあらゆる題材を取り上げ、その精髄を現代人のために平易に説き明かす。その講話録は 650冊以上も出版。翻訳は32ヶ国語以上にのぼる。1990年肉体を離れる。 
                      
ビレッシュは彼の最初期の西欧人の弟子の一人であり、セラピー・グルー プを瞑想に導入する大胆な実験に最も貢献した。
OSHOがビレッシュに親密に語りかける記録は、ダルシャン・ダイアリーなどに多数記録が残されている。

 

 

ビレッシュのOSHOへの質問
「来るべき日のセラピーについての、

あなたのビジョンは何ですか?」

 

OSHO:
 それは、世界中のあらゆる宗教に取って代わることができ、なおそれ自身は宗教にならないという途方もない可能性を秘めている。そのはたらきは、人間に対し て宗教が行ってきたあらゆることを破壊することだ。それはとても自己破壊的なワークだ。

 

 いったん、宗教が人間に対して行ってきたあらゆることを破壊するこ とができたら、人は本当に健康的に、全体的になり、セラピーはもう必要ではなくなる。だがそれはなされなければならない。ちょうど薬のようなものだ。病気 の時、あなたは薬を必要とするが、健康になったら窓から薬瓶を放り出してしまう。

 

 セラピーはとても大きな仕事をしなければならないが、その仕事がやり遂げられたなら、それは セラピーの終わりもまた意味するだろう。そしてセラピストは、寄生的などんなものにも成り代わらないというその現象を誇りに思うべきだ。彼らの仕事はその 場所を掃除する清掃人であり、今彼の仕事は終わった。もはや必要ではない。人類は、スピリチュアルな意味でも、心理的な意味でも完全に健康になることがで きる。

 

 人間が健康になり、全体となることを妨げているあらゆる障害物を破壊する必要があるだけだ。だからセラピーには、あらゆる宗教を破壊し得るという意味で、大いなる前途がある。

 それは人々を脱プログラムすることができるが、そこにはいつも再プログラムへの誘惑があることを覚えておきなさい。それはなされてはならない。

 

 もし人が再プログラムされれば、他のセラピーが必要になってしまうだろう。その時あなたは聖職者に取って代わっただけで、人類の進化の道筋を変えたことにはならず、 世界に革命をもたらしたことにもならず、ただの小さな変化に過ぎない。 今や聖職者がセラピストに代わった。

 

 私は私のセラピストたちに、人間が生来持ってい るあらゆる喜び、あらゆる生き生きさ、あらゆる愛を何千年にもわたって破壊してきたこれらの醜いモンスターに取って代わって欲しくない。その根を切って、 人を自由にし、彼らに成り代わる誘惑に負けないことに感謝しなさい。

 

 私のセラピストたちは特にそれを覚えておかなければならない。他のセラピストたちは聖 職者の立場をとるだろう。もうすでにそうしている。精神分析医は新しい聖職者であり、既得権益によって守られている。彼はすでにそうしているし、どんな聖職者たちよりもうまくそれをやることができる。なぜなら彼は、マインドのはたらきについて、より知っているからだ。

 

 だが、私のセラピストたちの仕事は、本当に大きなもので、危険でもある。大きいというのは、私たちはすべてを破壊しなければならないからだ。宗教が人類に対して行ってきたことのすべてを元通りにしなければならない。

そして仕事が終わったら、あなたは満足し、くつろいで、庭師や農夫になることができる。木こりになってもいい。もし私のセラピストたちが世界中で仕事をやり遂げたら、すぐに宗教はなくなるだろう。そしてそこにはどんなセラピーも必要ではないだろう。OKかね、ビレッシュ?

 

 

 

 

 

ビレッシュ・・あなたはOKなだけではない。あなたは完璧だ。OSHO

 

 ビレッシュの質問:

Osho,あなたは、いつも私のインスピレーションの源でありつづけています。 あなたは、たとえ私が行く先々でまるでのけ者 にされたように感じることがあっても、それでも自分のことをやりつづけ、仕事で妥協してはいけない、と勇気づけてくれます。 私は、不適格者(ミスフィッ ト)でありつづけてもOKなのだということを、あなたに言ってもらいたいのです。

 

OSHO:これはビレッシユからに違いない。

ビレッシュ、あなたはOKなだけではない。あなたは完璧だ。

 私のまわりに集まっている人びとはみな、腐りきった社会の不適格者(ミスフィット)たちだ。知性にあふれた人は、すでに死んでいる社会、時代遅れの社会、 信仰体系に基づいた迷信を信じている社会のミスフィットになって当然だ。

 

 適格者になれるのは、知恵遅れの人たちだけだ。あなたが知恵遅れでないのは、運がいい。

 私にフィットする人はみな、ほかのどこでも必ずミスフィットになる。

 

 私は生涯、自分の家族のなかで、宗教のなかで、国のなかで、ミスフィットでありつづけ てきたし、これまでずっとそれを楽しんできた。というのも、ミスフィットであることは、ひとりの個人であることだからだ。既存の確立された秩序に合わせる ことは、自分の個としてのありようを失うことだ。

 そして、それがあなたの世界全体だ。妥協し、自分の個としてのありようを失うやいなや、あなたはすべてを失っている。自殺したのだ。世界に合わせている人たちは、自分を破滅させた人たちだ。

 たしかに、それには勇気、自由への途方もない強い感覚が必要だ。さもなければ、全世界を向こうに回して独りで立てない。だが、全世界を向こうに回して立つ ことは、この上ない大いなる喜びの始まりだ。一度もミスフィットであったことのない者たちには理解できない喜びであり、至福だ。

 人間の歴史に残る大人物たちはみな、その社会のミスフィットだった。人間の幸福とこの世の美に貢献した人びとはみな、ミスフィットだった。ミスフィットで あることは、途方もなく貴重な資質だ。

 

 どんな点でも、けっして妥協してはいけない。妥協そのものが、あなたの破滅の始まりだ。

 私は、頑固でなければならない、と言っているのではない。もし、なにかが正しいと見たら、それにそって行くがいい。だが、あることが正しくないとわかるや いなや、たとえ全世界がそれは正しいと感じていても、あなたにとっては正しくない。そうなったら、自分の立場に固執するがいい??それがあなたにスタミ ナ、強さ、ある種のまとまりを与えてくれる。

 私のサニヤシンはみな、世界のミスフィットたちだ……。だが、ミスフィットであることは、エゴイストであるという意味ではない。

 

 もしあなたがエゴイストで あれば、いずれは妥協する。なんらかの人の集まり、なんらかの社会、なんらかの国を見出し、それが自分がもっとエゴイスティックになる助けになれば、あなたはすぐにその社会に合わせる。

 

 ほんとうのミスフィットは謙虚な人だ。誰もその人を取り込めないのは、そのためだ。その人が自由なのは、エゴから解放されているからだ。

 どこかで拒絶された人は誰でも、ここでは喜んで迎え入れられる。というのも、知性、個人としてのありようをもった人しか拒絶されない、というのが私の理解だからだ。

 

 従順な人、個人としてのありようをもたず、表現の自由をもたず、なににもけっしてノーと言わない人たちは、いつでもイエスと言う用意ができてい る、自分の意志に背いてまで。

 

 世間で尊敬されるのは、こうした人たちだ。その彼らが大統領になり、首相になり、ありとあらゆる意味で尊敬されているが、そ の理由は単純だ。彼らは自殺しているからだ。彼らはもはや生きていない。化石化しているだけだ。

 ここでは、人びとが生きている。生きている人を、ある特定のパターンに適合させることなどできるかね? 個人はみなユニークだ。それに、なぜ他人のひな型に合わさなければならないのかね? 

 

 この世の惨めさすべてを簡単に言い表わすことができる。誰もが、その人本来のあるべき姿を見出だすことなど気にもして いない他人によって切り詰められ、型にはめられ、整えられている。彼らは存在にチャンスを与えない。

 子どもが生まれるまさにその瞬間から、彼らはその子をだめにし始める。もちろん、あらゆる善意でもって。それを意識してやる親はいない、が、その親も同じように条件づけられてきた。親は自分の子どもにも同じことをくり返す。ほかにはなにも知らないのだ。

 言うことを聞かない子どもは、たえず非難されている。従順な子どもは、その一方で、たえず褒められる。だが、従順な子どもが、創造性の次元で世界的に有名 になったことなど、聞いたことがあるかね? 

 従順な子どもがなにかでノーベル賞を受賞したなど、聞いたことがあるかね??文学、平和、科学?従順な子ど もは一般の群衆になるだけだ。存在に付けたされたものはすべて、言うことを聞かなかった者たちが付けたしたのだ。

 ジャン・ポール・サルトル、今世紀のもっとも重要な人物のひとりは、ノーベル賞を辞退した。その理由を聞かれて、彼はこう言った。「ノーベル賞を受ける と、ある意味で妥協することになる。自分では認めていない社会から、ある意味で尊敬を受けることになる。おそらくノーベル賞で、私は弱くなるだろう」

「彼らは私のことをとても尊敬している?その彼らが信じているあらゆるものに対して、闘いつづけることなどできるだろうか。彼らの神に対して、彼らの道 徳に対して、彼らの政治に対して」彼は言った、「ノーベル賞を受けることは自分を売ることだ。そんなことは私にはできない」彼はまったく正しかった。

 だから、いいかね、けっして妥協してはいけない、どんな犠牲を払っても。たとえ自分の命を犠牲にしても、妥協してはいけない。

 

 妥協した人は、骨抜きにされ た人だ。自分の個としてのありよう、そして自由のために死ぬ人は、喜びをもって死ぬ。存在の祝福すべてが、その人のものだ。

 私は、どこでもたえずミスフィットとして生きてきた。そして、それを徹頭徹尾、余すところなく、楽しんできた。まさに自分自身であることは、ひじょうにす ばらしい旅だ。あなたは自分の実存、自分の潜在能力を発見しつづける。

 

 そして、ある日、この発見があなたを、自分の実存の究極の開花へと導く。その究極の 開花を、私は光明(エンライントンメント)と呼んでいる。あなたは光を放つようになる。

 この世に光明を得る人がほとんどいなくなったのはなぜだろう?私は、この問いを何度も何度もたずねられた。理由はひじょうに単純だ。彼らはその生涯、あ えてミスフィットでありつづけ、非難され、不名誉にあまんじ、拒絶されようとしなかったからだ。

 

 ごくわずかな人びとしか個人でなく、ごくわずかな人びとし か自分の実存の究極の爆発に至らなかったのは、そのためだ。始めた人たちはいた、が、彼らはまさに自分自身であることの危険を目のあたりにして、結局は妥協したのだ。

 私は、なににもけっして妥協しなかった。それは途方もない助けになった。厄介なことではあった。誰もが私に反対し、誰もが私を非難していたが、それは独り であるための途方もない勇気を私に与えてくれた。私は、自分が苦しまなければならなかったことはすべて、どんな不平も言わずにその苦しみを通り抜けた。私 は自らそれを選んだのだ。だが、その火が、私の実存をさらに、さらに純化した。

 だから、どのような点でも妥協してはいけない。というのも、その妥協点があなたを弱くするからだ。

 

 あなたは自分の個としてのありようを失ってしまう。だが、エゴイスティックなってはいけない。謙虚であるがいい。エゴイストになりたければ、遅かれ早かれ妥協するしかない。

だから、妥協はなしだ、結果はどうあろうとも。

 

 結果として死がやって来ようと、あなたは死を踊りながら迎えることができる。死を踊りながら迎えることがで きるのは、個人だけだ。死などないことを、死はひとつの形から別の形への変容でしかないことを知っているのは、個人だけだからだ。

 

 そして、もし彼らが全面 的に咲いたら、光明を得たら、自分たちは永遠の実存であり、不滅だということを、完全に、途方もないくつろぎのうちに知る。全宇宙が彼らのものだ。彼らは つねにここにありつづけてきた。彼らは今ここにある。そして、永遠にここにある。彼らは存在の固有の一部だ。死は問題外だ。

 

 そして、これこそまさに、生が あなたを導いてゆくところでなければならない。不死の体験へと。

Osho, From Death to Deathlessness
 

 

 

 

 

私に、あなたを通して

ワークさせなさい

 

 

ビ レッシュ:私はここに座って、そして聞いています…。 

 私は、自分がただ話すことをさせずにいます。いつも最後にはダルシャンから、自分が言いたかった すべてのことを考えながら帰途につくのです…。

 

 でもわたしはあなたにただ言いたかったのです…。 

あなたは私が本当は何を言いたいのかご存知です- 「Dear god、お元気ですか」そんな風な事々です。私は、あなたといっしょに居るとき、自分にはあなたに話させません。私がするのは私の夢の中、思考の中であな たに話すことです。おわかりでしょう?私はあなたに、私の人生が豊かになるのを助けてくださってありがとうございます、と言いたいのです。おわかりで しょうが、そうしたいのです。私はただあなたにお伝えしたいのです…。

 

OSHO:うむ、理解できる。私があなたの夢の中にいて、

                  あなたがただしゃべっているのだと想像してごらん!

 

 

ビレッシュ: オーケー。 おわかりでしょうが、私が受けた最初のダルシャンで、また自分はやりそこなっていたと感じました。そして、あなたは、 おっしゃったすべてのことの後ろで、こんな風に話しておられました、「そしてビレッシュがそこにいないようにしなさい」

 

 それで私は言いました、「どうした ら、グループリーダーでいて、そして同時にそこにいないなどということが、私にできるでしょう…」 

 

 それから3つの事が私に起こりました。スタックした ら、目を閉じてあなたのことを考え、くつろぎなさい、とあなたがおっしゃったことを思い出したんです、そうしたら、バン! あなたは、ご自分のことをなさってますよね、そうでしょう?

 

(OSHO、クスクス笑う) 

 

私はグループリーダーでいました、そうでしょう? そしてそこには、名前さえ知らないのです が、彼がいました、そして私は言いました 「よし、彼がたった今必要としていることは重たい、父親からの抑えつけだ、それを爆発させて吹き飛ばしたら、全部手放すことができる。」

 

 そんな風に私はグループリーダーを演じています、わたしはそこに向かっていき、そして彼に自分のすることをしました、彼を怖がらせたのです! 

 

 それから私たちはいっしょに横になりました、そして彼は自分のことをやり、少し泣き、そして私は彼の父親であるかのように話しかけました。

 

 そして私は言いま した 「オッケー、おまえは私の息子だ」 そしてそう言った時、私は内側で本当の自分の息子のことを考えました。そして言い始めました、「ワオ、これは 俺には本当にヘビーになってきた、本当にヘビーだ」私は自分の息子のことを考えながら、同時に彼の父親にはなれません。わたしはスッダ(もうひとりのグ ループリーダー)に向き直りました。すると彼女は、私の息子になっている彼に向かって語りかけました、そのとき私の胃には大きな「ノー」がありました。そ して私は本当に怖くなりました…。 

 

 しばらくすると私は誰が私の息子なのか、またそれが私の父親なのかあるいは私が彼の父親なのか、もうわかりませんでし た(グループから笑い声)

 

…それはどうでもいいことでした。 私は泣いていました、そして目を上げると他の誰もが泣いていました。

 

私はその意味が何である かについて考えました― 「ビレッシュがそこに居ないようにしなさい」 私は何が起こっていたのかわからず、あるいは誰がビレッシュなのかもわかりませんでした。

 

OSHO: ビューティフル、グッド。あなたはそれをしてのけた。

 

ビレッシュ: あと2つの事をお話したいのです… 彼らはみんなの足を洗うというラヴ・プロジェクトをやることを決めました― そして私は一人に なるために、そしてグループに何が起こっているかを見るために、そして私たちがどこに向かっているのか、そして全てを見るために、小さな部屋に入りまし た。

 

 すると誰かがドアをノックして、それはグループの女性だったのですが、「あなたの足を洗いたいのです」と言われました。そのとき、私の中で再び同じ大 きな「ノー」がありました。

 

 私はそこから出て行き、彼らは私の足を洗いました。私がそのことをわかる前に、誰かが私の頭をなでていました。私の足を洗 い、私の頭を動かし、そしたら私は何が起こっているか、また分からなくなりました・・・私は、動くことができませんでした。自分が誰なのか、また分から なくなっていました。

 

OSHO: グッド!あなたはまたそれをやった!(大きな笑い)そして3番目の事は?

 

ビレッシュ: 私たちが休憩を取っている間に、グループはそれ自身で始まっていました、それで最初私は言いました「これはすごい-彼らが自分たち でやっているなんて・・・・

 でも、私は内側で言っていたんです、

「どうして君たちは私なしで始められるんだ?」(大きな笑い)

 

そして私は、何が起こっている のか見るために、そこに入っていきました、すると彼らは本当に自分たちでやっていました。そのときまた、「そしてビレッシュがそこにいないようにさせなさ い」が私を打ちました。


OSHO:  うむ、起こってきたのは本当に素晴らしいことだ、グッド。

 

これら3つのポイントは全て本当に重要だ、そうしたことは、もっと頻繁に起こるようになるだろ う。 

 

 そして最終的には、それらがその瞬間だけのものではなくなるときが来る。それがあなたのあり方になる。

 

 これらは一瞥だ…それらを滋養し、覚えていな さい。次にはより多くのことが可能になる。それがある日、シンプルにあなたの自然な意識となるものだ。

 

 ビレッシュはそこにいない、そうしたらとてつもない 事々が起こる。そこにはやり手というものは誰もいない、観照者すらも。分断は存在しない、つまり物事はただそれ自身のやり方で起こる。

 

 あなたが脇に立っ ているということではない-あなたは動く。

 あなたは本当にグループとともに動く。離れることなく、彼らを導くのでもなく、だが、彼らとともに十分いれば、彼らはリーダーのことをすっかり忘れ、また リーダーも自分自身のことをすっかり忘れる。そのときリーダーは、全ての参加者のもっとも深いところにある何かになり、グループはそれ自身で動いていく。

 

 あなたはそれが、あなたなしで動いているとは決して感じない。それはあなたとともに動いているが、今やあなたは参加者たちとは分かたれていない。あなた は彼らの一部になった、あなたは彼らの中に入ったのだ。                                  

 このあたりにいまやグループは集合体ではない、それは実際もうグループではない。集合的な魂が現れて来たのだ…個人たちというものはもはやそこにない。 彼らは自分たちの境界線を落とし、溶け合った。定義といったものはもはやそこにない。すべてがぬかるみのようになって、境界線が混ざり合っている。誰も、 誰が誰か分からない。

 

 魂が顕れてきたときがグループにとって最も美しい瞬間だ。そうしたら、何かが全てを乗っ取る…超えていて、しかも内なる何かが。

それらはエクスタティックな瞬間だ。あなたに起こってきたことはすぐにグループ全体に起こるだろうし、みんなが同じ瞬間にそれに気づくようになるだろう。

 

 これが「占有」という現象として知られているものだ。現代的なマインドは、完全にこの言語を忘れてしまった。原始的な人々だけが、それについて知ってい たーどのようにして乗っ取られるかを。それはシンプルに、エゴに乗っ取られない方法を意味している。

 

 ひとたびあなたがそこにいなければ、あなたを越えた何 かが乗っ取り、そして物事は動く―誰もそれらを動かしていない、それらは自分自身で動く。

 エネルギーそのものが、川のように動く…それはそれ自身のコースを見つけ、誰もがシンプルにそれとともに動く。川をプッシュする必要はない-あなたはそれ から分かたれていない。

 

 その経験は良いものだった。これらの3つの瞬間は祝福されていた。それらを思い出し、それらに留意していなさい、そしたらもっと もっとそれがやってくるだろう。それらが次にやってきたときには恐れないように。 

 

 今回あなたは怖くなった。もし人が恐れれば、その瞬間は長く残る境地は なれない。それは来て、去ってゆく。なぜならあなたがそれを受け入れていないからだ。あなたはそれを迎え入れなかった。ゲストはドアをノックしていた、だが主人が望まなかったのだ。

 

 それを迎え入れなさい。そして、次にそれがやって来たときには踊りだしなさい、そしたら誰もが何が起こっているのかが分かる。 (ビレッシュは一人でクスクス笑っている) 

 あなたはその瞬間が深く深く、深く成長していくのが分かるだろう。それは永遠になることができる。なぜならそれは長さの問題ではなく深さの問題だからだ。

 これが理解されなければならない、時は長さだ、瞑想は深さだ-同じエネルギーの。時は長さだ、つまり、ある瞬間が、他の瞬間に続く他の瞬間に続いてゆく。 つまり列であり、線であり、線状のプロセスだ-だが人は同じ平面を水平に動く。 チック、タック、時は過ぎてゆく…しかし、その平面は、同じに留まる。

 

あ なたが体験したものは、深さの瞬間だ。 突然あなたは滑り落ちる。もしあなたが私に許すなら滑り上がる。両方が同じことだが、あなたはもう水平ではない、 あなたは垂直になる。

 

 突然の転換、そしてあなたは線状のプロセスから滑り出る。

 

 人が恐れるのはマインドは水平面にだけ存在するものだからだ。マインドが恐れる。あなたがどこに行くのか?と。

 それは死のように見える。それは狂気のように見える。マインドには2つの解釈だけが可能だ。つまりあなたは気がおかしくなったのか、死んでゆくのかのどち らかだというわけだ。両方が恐ろしい。そしてある意味で両方とも本当だ。 

 

 あなたはマインドにおいて死んでいく、だから解釈は正しい-そしてあなたはエゴ において死んでいく。そしてある意味であなたは気が違っていく、なぜならあなたは全ての正気を握り締めているマインドを超えて動いていっているからだ。 そのマインドはマインドの中にあるものだけが正気で、マインドを超えたものは狂気であると考えている。あなたは境界線を越えている。あなたは危険な線を越 えている。そうするとマインドは言う、「気をつけろ、止まるんだ!戻って来い!」なぜなら知っているものは誰もいないからだ。

ひとたびそのラインを超えたら、あなたは戻ってこないだろう。

 

 そういうわけでマインドは恐れるのだ。しかし、あなたが滑り落ちたり、または滑り上がったり する、高みに滑ったり深みに滑ったりするこれらの瞬間は同じだ。 あなたが水平のラインを超えて滑るとき、そこには永遠がある。時が消える。ひとつの瞬 間が永遠に等しくなる、まるで時が止まったように。存在の動き全体が止まる。なぜなら動機が止まるからだ。

 これがキリスト教の十字架のシンボルの意味だ。 十字には二つのラインがある。一つは水平で、一つは垂直だ。 ジーザスが十字架に掛けられたときは、それ は非常に象徴的だった。彼の両手は水平のラインに掛けられていた、そして彼の存在全体が垂直のラインの上にあった。 

 

 両手は「すること」、行為を表現して いる。だから、「すること」が水平のラインの上にあるのだ。 

 あなたが行為しない者になったとき、あなたはスリップする。あなたが、ただ実存としてあると き、あなたがただ存在するとき、あなたは垂直のラインの上にスリップする― それが、十字架における垂直のラインだ。

 

 だがもちろん、あなたもまた、十字架に掛けられたジーザスのように震え上がるだろう。彼は叫び始めた、「わが主 よ、わが主よ、あなたはなぜ私をお見捨てになったのですか、あなたはもう私とともにいては下さらないのですか?この苦しみの中に私を独り置き去りになさったのですか?」 

 キリストさえも震え上がった。誰もが恐れるだろう。それはナチュラルだ。

 

 しかし、だんだんと、その普通さを超えていきなさい― そうしたらReal Natural(本性)がその扉を開ける。それはグッドだ。

 

 そして私がビレッシュに「あなたが消えるのだ」と言うときに意味していることはそれだ― 

 

 あな たを通して私にワークさせなさい。私があなたの内なる垂直のラインだ。 

 

 私はここにいるすべてのサニヤシンの垂直のラインになりたいと思っている。

 

 ひとた びあなたが私に許したら、可能性はとてつもなく大きい。

グッド、ビレッシュ。本当に上手くいっている。私はハッピーだ。

(ビレッシュ、赤い目をして彼の席に戻る)

 

 

 

 

 

OSHO講話ハグすることのアート

 

「分析はマインドの道だ。
抱くこと(ハグすること)はハートの道だ。

マインドは全ての病気の原因であり、

ハートは全てのヒーリングの源だ。」


Osho(from:The Wild Geese and the Water#4,1981)           

 人は必要とされる必要がある。それは、人間も最も基本的な必要性のうちの一つだ。

 

 人がもし望まれなければ、人は死に始める。人が、誰かにとって、少なくと も誰かにとって重要だと感じることが無い限り、人の人生全てが無意味になる。

 

 だから、愛はそこにあるもっとも偉大なセラピーだ。世界はセラピーを必要とす る。なぜなら世界は愛を取り逃がしているからだ。愛する世界では、セラピーは全く必要とされないだろう。

 ハグすることは、ただ、愛の、温かさの、関心を持つことの、ジェスチャーだ。他の人から流れる温かさをただ感じるだけで、あなたの中の多くの病気を溶かす。氷のような、冷たいエゴを溶かす。それはあなたをもう一度子供にする。

 

 心理学者達は今、子供が抱きしめられ、キスされない限り、彼はある栄養を取り逃 がす、という事実にかなり気づいている。無視され、気にかけられず、かまわれず、彼は深くどこかに悲しみを持ったままだろう。彼は育成されたが、母性的に 世話はされなかった。

 

 もし子供が抱きしめられないなら、他の全てが与えられても、彼は縮み始めることが-彼は死んでしまいさえし得る-観察されている。肉 体に関する限り、全ての注意が払われた、しかし愛は子供を取り囲まなかった。彼は孤立した状態になった。彼は存在から切り離された状態になった。

 

 愛が私達のつながりだ。愛は、私達のまさに根だ。

 

 あなたが呼吸するように-肉体のためにはそれは全く不可欠だ。呼 吸を止めると、あなたはもう生きることができない。-同様に、愛は内側の呼吸だ。

 

 魂は、愛することによって生きる。分析はそれをしないだろう。機知と明晰さ、知識と学問はそれをしないだろう。

 あなたは、セラピーについて知るべきことがある全てを知ることができる、あなたはエキスパートになることができる、しかしもしあなたが愛のアートを知らないなら、あなたはセラピーの奇跡の表面に留まるに過ぎない。

 

 あなたが患者を、苦しんでいる人を感じ始める瞬間、100のケースのうち90人が、彼らが愛さ れていないという理由で苦しんでいる。

 

 もしあなたが患者の愛に対する必要性を感じ始めるなら、そしてもしあなたがその必要性を満たすなら、患者の健康状態 にほとんど魔法のような変化があるだろう。

 シグムント・フロイトは愛を非常に恐れた。彼は彼自身の抑圧された愛を恐れた。彼は、ある関わり合いに巻き込まれるかもしれないことを恐れた。彼は人と関 わり合いになるのではなく、彼の内面の一部になるのではなく、深みはまるのではなく、外側にいたかった。科学的な観察者、無関心で、超然として、クール で、離れたままで。彼は精神分析をまるでそれが科学であるかのように作ることを望んだ。

 

 それは、科学ではない。そして決して科学になることも無いだろう! それは芸術であり、そして論理よりは遥かに愛に近い。

 真の精神分析医は患者の内面に深く入ることを避けないだろう。-彼は危険を冒すだろう。

 

 それは危険だ。それは荒波に入ろうとすることだ。あなたは自分を溺 れさせるかもしれない。-結局、あなたは人間だ!あなたはあるトラブル、複雑な状態に入り込むかもしれない。;あなたは自分に対していくらかの問題を創り出すかもしれない。しかし、その危険は冒されなければならない。

 それが、私がとてもウィルヘルム・ライヒを愛する理由だ。彼は精神分析の全面を変えた人だ。-患者と関わり合うことによって。彼は長いすを捨てた。彼はこ の超然としたよそよそしい態度を放棄した。彼はシグムント・フロイトよりはるかに偉大な革命家だ。シグムント・フロイトは伝統を維持した。彼は彼自身の抑 圧を恐れた。

 もしあなたがあなた自身の抑圧を恐れないなら、あなたは途方も無く助けることができる。もしあなたがあなた自身の無意識を恐れないなら、もしあなたがあな たの問題を少し解決したなら、あなたは患者の世界に関わりあいになることによって、観察者であり続けるより参加者になることによって、あなたは非常に助け ることができる。

 

 実際、時には患者自身よりさらにもっと、精神分析医は自分の問題を持っているので、シグムント・フロイトの恐れを理解することができる。

 私に関する限り、それについて私は無条件の声明を出したい。ブッダだけが真のセラピストであり得る。なぜなら彼に問題は残されていないからだ。彼は患者と 溶け合い、溶けこむことができる。

 

実際のところ、彼にとってその患者は全く患者ではない。それが患者と彼のセラピストの間に存在する関係性と、弟子とマス ターの間に存在する関係性の違いだ。

 

弟子は患者ではない。弟子は最愛の人、愛されし者だ。マスターは観察者ではない。彼は参加者になった。彼らは別々のア イデンティティーを失った。彼らは一つになり、そしてその一つであることが助けになる。

 

 ハグすることはただ、一つであることのジェスチャーだ。-ジェス チャーでさえもが助けになる。あなたは正しい。

 あなたは尋ねる

「なぜハグすることはこれほどまでに途方もなく効果的なセラピーのツールなのでしょうか?」

それはそうだ。そしてそれはただのジェスチャーだ。

 

もしそれが本当なら、ジェスチャーであるだけでなくもしあなたのハートがそこにあれば、それは魔法のツールであり得る。それは奇跡であり得る。それは即座に状況全体を変容させ得る。

 それについて2,3のことが理解されなければならない。一つは、子供が死に、その人間が10代の少年少女になり、それから少年少女は死に、その人間は若者 になり、それから若者は死に、彼は中年になり、等といった考えは間違いだ。

 

 子供は決して死なない。-何も絶対に死なない。子供はそこにいる。いつもそこに いる。他の経験に包まれ、-思春期によって、それから若さによって、それから中年期によって、それから老年期によって-しかし、子供はいつもそこにいる。

 

 あなたは層に層を重ねるタマネギようだ。しかしもしあなたがタマネギをむくなら、すぐにあなたはもっと新鮮な層を内側に発見するだろう。さらにもっと続け ると、あなたはさらにもっと新鮮な層を見つけるだろう。同じことが人間についても真実だ。

 もしあなたが彼の中に深く入っていくなら、あなたはいつも無垢な子供を見つけるだろう。

 

-そしてその無垢な子供と接触することはセラピー的だ。

 

ハグするこ とはあなたに子供との直接の接触を与える。

 

 もしあなたが誰かをあたたかさ、愛を持って抱きしめるなら、もしそれが無力なジェスチャーでないなら、もしそれが意味があり、意義があり、本当なら、もしあなたのハートがそれを通して流れているなら、即座に、あなたは子供と、無垢な子供との接触をする。

 

 一瞬の間で さえも表面化する無垢な子供は、途方も無い違いを作る。なぜなら子供の無垢さはいつも健康で、全体だからだ。それは汚されていない。あなたは汚れが入り込んだことが無い、人の最も内なる中核に達した、あなたは汚れの無い中核に達した。

 

 そして汚れの無い中核を再び人生と共に鼓動させることは十分だ。

あなたは 始めた。ヒーリングのプロセスを引き起こした。

あなたが人を愛する時、言葉での表現は十分ではない。言葉は十分ではないのだ。もっと実体のある者が必要とされる。言葉はただ抽象的だ。あなたは何かをし なければならない!手を握り、その人をハグし、その人にキスし、その人を抱擁しなさい。

 

 それはあなたたち両方を助けるだろう。もしあなたがハグに溶けるこ とができるなら、あなたは両方ともが再びもっと若く、より新鮮に、元気になることを感じるだろう。
それがヒーリングのプロセス全体だ。

 Osho(from:The Wild Geese and the Water #4,1981)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三つの根源的な恐怖

 

 

ビレッシュの質問に答えて

ヒューノニバシティの哲学的背景

  • セラピーグループの中で、

  • 人々の中に常にあがってくる3つの恐怖があります。

  • 気が狂う恐怖、

  • セクシャル・オーガズムの恐怖、

  • そして死にゆくことの恐怖です。

●気が狂うことの恐怖は、本質的には、独りあることの恐怖である。
●オーガズムの恐怖は、本質的には、罪悪感である。
●死の恐怖は、本質的には、未知なるものへの恐怖である。

これらの三つの恐怖について、Oshoは1985年、ビレシュのインタビューに答えて、次のように話しました。

 

ビレッシュ:

私がセラピーで人々に働きかける時、いつも彼らの中に三つの恐怖が現われてきます。それは狂っていく恐怖、性的オーガズムに委ねる恐怖、そして死の恐怖です。これら三つの恐怖は、私のワークにおいて、何度も何度も現われてくるのです。これについて話していただけませんか?


Osho:
それは本当に意味深く、また根の深い問いだ。 これらの3つの恐怖の中で、人類は何千年もの間、生きてきた。それらは個人的なものではない―それは、集合的なものだ。それらは、集合的な無意識からやってきている。

狂気への恐怖

狂っていく恐怖は、あらゆる人たちの内にある。彼らの知性が発達を許されてこなかったという単純な理由からだ。既成の社会にとって、知性は危険だ。 だから何千年もの間、彼らは知性のまさに根を断たれてきた。

日本では、すばらしい芸術と考えられているある種の木がある。それはシンプルに、殺人だ。木々は400年、500年と長生きするが、6インチほどの高さし かない。幾世代にもわたる庭師が、彼らの世話をする。その技は、こういうものだ、木々を、底のない植木鉢に入れ、根を切り続けるのだ。彼らは、木々の根が 大地に根をおろすことをさせない。あなたが深く行くことを許されないとき、木はただ、年老いるだろう。―それらはけして成長することがない。その木を見る のは、不思議な現象だ。それは古(いにしえ)のもののようだ、だが、それは年をとってきただけで、けして成長することがない。それはけして花咲くことがな く、どんな実をつけることもない。

それがまさに人間の状況だ。彼の根は断たれている。人はほとんど根がないまま生きている。彼が根なしにさせられてきたのは、そうすれば、社会や文化、宗教や国家、両親やあらゆる人たちに依存するようになるからだ。彼は依存せざるを得ない。自分自身には根がないのだから。

自分に根がないことに気づく瞬間、彼は自分が狂っていくのを、狂気に走っていくのを感じる。彼はあらゆる支えを失い、暗い溝へと落ちていく・…・彼の知識 は借り物であり、自分自身のものではなかったからだ。彼の体裁は借り物だ。彼自身は、自らの実存に敬意を抱いていない。彼の全人格は、何か外側に供給源を 持つ借り物だー大学や、教会や、国家からの。彼自身には何ひとつ自分のものがないー

ちょっと、思いつく限りの賛沢な大宮殿で生活する人のことを考えてごらん。ある日突然、彼に気づかせてみなさい、その宮殿は彼のものではなく、その賛沢も 彼のものではないのだと。それはこれから来る他の誰かのもので、彼はつまみ出されることになるのだと。彼は狂ってしまうだろう。

深いセラピーの中では、この地点に超遁することになるだろう、その人はそれに直面し、それを許さなくてはならない。狂っていくのだ。セラピーの中で狂って いける状況を許しなさい。ひとたび狂っていったら、彼はその恐怖を落とすだろう。もう彼には、狂気とは何かがわかっている。恐怖はいつも未知にまつわるも のだ。彼を狂わせるがいい、そうすればすぐに穏やかになるだろう、彼の恐怖には、何の現実的な基盤もないのだから。それは社会によって投影された恐怖だ。

両親たちは、もしあなたが彼らに従わず逆らうなら、お前は非難されるぞと言う。ユダヤの神はタルムードの中で言う、「私はとても嫉妬深い神、大いなる怒り の神だ。私は親切ではない」 あなたが大衆のたどる道を去るなら、きっと狂っていると宣言されるだろう。誰もが群集にしがみつき、宗教や教会、政党や国 家、人種の一部であり続けようとしている。

 

は独りを恐れている。そしてそれこそ、あなたが誰かを、その人自身の深みへと連れてくる時に行なっていること だ。その群集全体、それら全ての結びつきが消え失せる。彼は独り残され、彼がいつも依存していた人は誰もいない。 彼には自分自身の知性が全くないーそれ が問題なのだ。自分自身の知性を育て始めるまで、彼はいつも狂気を恐れているだろう。そればかりか、社会はいつ何時でも彼を狂わせられる。それが好都合な ら、彼らはその人を狂わせるだろう。

基本的に、人類全体が狂気の瀬戸際にいる。深いセラピーの中で不意に恐怖にとらわれるのは、その人があらゆる支柱や支えを失うからだ。群集ははるか彼方に 消え去っていき、彼は独り取り残される。不意にそこには暗闇があり、恐怖がある。彼は独りでいる練習も、訓練もされてきていない。そしてそれこそが瞑想の 役目だ。瞑想なしには、どんなセラピーも完結しない。瞑想だけが自らの失われた根や、個人でいる強さを与えられるのだから。恐れることなど何もない。だが その条件付けのために、あなたは一瞬ごと、一歩ごとに恐れねばならない。

人類全体が偏執症にかかって生きている。この人類は楽園に生きられるはずなのに、地獄で生きている。 何も心配は要らない、恐れることは何もないと、その 人に理解させてあげなさい。子どもはみな恐怖なしに生まれる。彼は怖がりもせずに蛇たちと遊べる。.彼には恐怖や死といった考えは何もない。 

瞑想は人を その幼年期へと連れ戻す。彼は再び生まれる。 なぜそこに恐怖があるのか、その人に理解させてあげなさい。それは彼に押し付けられた、まやかしの現象だと いうことを明らかにしなさい。恐れる必要など何もないと、この状況ならあなたは狂っていけるし、怖がることはないと。初めて狂っていくことができ、非難さ れるのでなく、愛され、敬意を払われる状況にあることを楽しむがいい。そしてグループはその人に敬意を払い、その人を愛することだ―彼はそれを必要として いる、そして静まっていくだろう。大いなる自由とともに恐怖から出てくるだろう―すばらしい活力に満ち、力強く、統合されて。

性的オーガズムヘの恐怖

二番目の恐怖は性的オーガズムのそれだ。それもまた、宗教によって作り出されている。そもそも宗教が存在できるのは、人が自分自身のエネルギーに背 いているからこそだ。セックスとは人のエネルギーの全て、彼の生命エネルギーだ。宗教的預言者や救世主、神の使者たちはみな、違った言葉、異なった言語に よって同じ仕事をしている。

 

だが彼らの仕事は同じだ― それは、人を彼自身の敵に仕立てることなのだ。その基本的な戦略とは ―セックスがあなたの中の、最も強力なエネルギーであるがために― それは非難され、罪悪感をもたらさねばならないというものだ。するとその個人には問題が生じてくる。彼の本性は感覚的、性的なのに、マインド(思考する 心)はそれに反するがらくたでいっばいなのだ。彼は引き裂かれる。

 

だがマインドは落とせない。マインドを落とすということは、社会や宗教、預言者、イエ ス・キリストや神といった、あらゆる物事を落とすことだからだー個人となり、何も恐れずに独りでいられるまではー彼にそうする力はない。

自分のマインドに関する限り、人はセックスを恐れているが、彼のバイオロジーは、マインドとは何の関わりもない。バイオロジーはマインドからどんな情報も 受け取ってはいない。そこには何のやり取りもない。バイオロジーにはそれ自身の機能の仕方がある。バイオロジーは彼をセックスに溺れさせ、マインドはそこ に立ったまま、ずっと自分を非難し続けるだろう。

 

だから、彼は愛を交わしはするが、とてもせかせかとだ。その性急さには、まさしく心理学的な理由がある! 彼は何か間違ったことを、神に逆らうこと、宗教に反することをしている。罪悪感を感じるが、そうしないではいられない。

そこでの唯一の妥協は、手早く済ませることだ。そうするとオーガズムを避けることになる。今やそこには、もつれに次ぐもつれがある。オーガズムを知らない 男性は、不満足や欲求不満、怒りを感じる。なぜなら彼は、自然が無償で授けてくれた状態にいたことがないからだ。そこでは少なくともしばらくの間は完全に くつろげ、存在とひとつになれたはずだった。

 

セックスは、射精と同義になってしまっている。自然に関する限りそれは真実ではない。射精は部分にすぎない。 あなたはオーガズムなしにそれを行なえる。あなたは子どもを作れるのだから、生物学はあなたのオーガズムなど気にしない。バイオロジーはあなたが子どもを 作れば満足するし、それは射精だけで作れる。どんなオーガズムも不要だ。

オーガズムとは自然からの途方もない贈り物だ。男性はそれに恵まれていない、そして彼があまりに急いで愛を交わすために、女性もまた恵まれていない。女性 は暖まるのに時間がかかる。彼女の全身は官能的だ。全身が歓びにうち震えるまでは、彼女はオーガズムを体験できないだろう。そのための時間がそこにないの だ。何百万年もの間、女性たちはその生得権を完全に否定されてきた。そのために彼女たちはとても意地悪になり、絶えず小言を言い、いつでも身構えているよ うになってしまった。女性と対話するのは不可能だ。あなたは何年も女性と暮らしているが、二人で一緒に座り、生の深遠な事柄を語り合った時を思い起こさせ るような会話は、ひとつもない。いや、あなたが思い出すのは、喧嘩や、物を投げつけることや、意地悪ばかりだろう。

だが、その責任は女性にはない。彼女の存在は至福に満ちる可能性を、全て剥奪されているのだ。だから彼女は陰湿になる。これが聖職者たちに好機を与えてき た。あらゆる教会、寺院が女性たちであふれているのは、彼女たちこそ、男性以上に損失を被っている存在だからだ。男性のオーガズムは局所的であり、彼の全 身は官能的ではない。オーガズムの体験がなくても彼の身体全部が痛手をこうむることはないが、女性の全身は苦しむ。

宗教にとって、それはいい商売だ。人々は心宗理的に苦しまないと、教会には来ようとしない。ありとあらゆる低能な神学を傾聴したりはしない。彼らは苦しん でいるから、何か慰めを求める。彼らは希望を求める、少なくとも死んだ後くらいは、と。

 

人生には何の希望もないと彼らは知っている、それはすでに終わって いる。これが宗教に、男性と女性の双方に対して、セックスは全く無益だと示す好機を与える。それは無意味であり、どんな重要性もない、あなたは無用に自分 のエネルギーを失い、浪費している、なぜならあなたは何も体験することがなかったのだから、と。そうして、オーガズミックな体験を妨げることによって、宗 教は、男性と女性を奴隷にしてきた。

今では、同じ束縛の機能が、教育の欠かせない一部となっている。最近の聖職者は、心理学者だ。今では彼らは同じことをやっている。ほとんどすべての新しい 聖職者、特にクリスチャンは、神学校で、心理学を学ぶと知って、私は驚いた。さて、心理学と聖書に何の関わりがあるのかね?イエス・キリストと精神分析に 何の関わりがあるのかね?彼らが心理学と精神分析の訓練を受けるのは、明らかに、古い聖職者が消えつつあり、人々への支配力を失いつつあるからだ。聖職者 は現代風に仕立て上げられねばならない、そうすれば宗教の聖職者としてだけでなく、精神分析家、心理学者としても機能できる。当然、心理学者は彼とは競え ない。彼はもっと他の何か宗教を兼ね備えている。こうした物事は全て、セックスを非難するという単純な方策から起こってきている。

あなたのグループでオーガズムを恐れている人たちがいたら、オーガズムはあなたをより健全に、より知性的にし、怒りが減り暴力が減り、愛情が増すのだと、 彼らが理解できるよう、助けなさい。オーガズムは、あなたから取り去られてきた根をあなたに与えていく。だから心配はいらない。

オーガズムの中に溶け去ることと混ざり合っているのは、狂ってしまうかもしれないという恐怖だ。オーガズムの中で、人はクレージーになる、彼がクレージーになるのを、助けなさい。そうして初めて、彼は全いつにそれを持つことができるようになる。

オーガズムは、あなたのマインド、あなたのハート、あなたの肉体の、すべての繊維を、くつろがせる。人がオーガズムの体験を持っているかどうかは、瞑想に とって、とてつもなく重要なことだ。そうしたらあなたは彼に、瞑想を理解させることができる。それは生全体との、オーガズミックな体験だ。オーガズムはも しひとりの相手とのオーガズムがかくも美しく、かくも有益で、かくも健やかなものなのであれば、瞑想は、ひとひら草葉から、何百万光年の彼方の巨大な星ま で、あなたを取り巻く存在すべてとの、一体性をもたらすだろう。

死の恐怖

あなたが言う三つ目の恐怖は、死についての恐怖だ。死の恐怖の大半は、独りあること、そして無恐怖の最初の体験によって打ち壊されるだろう。残りの 死の恐怖は、オーガズムの体験によって即座に打ち壊されるだろう。なぜなら、オーガズムの中で、人は消えているのだから。エゴはもはやない。経験はある が、経験者はもはやいない。

はじめのふたつの段階が、第三の段階を溶かしてゆくことを容易にするだろう。それぞれの段階ごとに、あなたは彼の瞑想性を深め続けなくてはならない。瞑想 なしには、いかなるセラピーも大レた助けにはならない。たんに表面的で、そこここをなでるだけ、すぐにその人は元通りだ。真の変容は瞑想なしには決して起 こらない。そしてこれらの恐怖は、瞑想に関する限りすばらしい状況だ。

まず、三つの恐怖を創造的に活かす最初の恐怖を、彼を独りにさせるように、使いなさい。

 

そして第二の恐怖を、彼に勇気を与えるために使いなさい。

 

そしてあ らゆる思考を落とし、ただオーガズミックに狂っていくよう言いなさい。何が起こるかに構ってはいけない。

 

これらふたつの段階によって、三番目はとても楽に なるだろう。それは最もたやすい。それは人の最大の恐怖に見える。それは真実ではない。あなたは死を知らないのに、どうしてそれを恐れられるのかね?あな たはいつも他の人たちが死んでいくのを見てきた。あなたは自分自身が死んでいくのを見たことはない。誰にわかるかね、あなたは例外かもしれない、死んでい くという証拠はないのだから。死んでいった者たちは、死を免れなかったことを証明しただけだ。

人々が、嫌悪、苦しみ、老いの中で死んでいくーそれがあなたの死の体験であり、あなたに、死の恐怖をもたらす。光明を得た人の死を知る者はいない、彼がど れほど美しく死ぬか、どんなに喜んで死ぬかを。彼の死の瞬間は途方もない光輝の、沈黙の瞬間だ。あたかも、喜びが彼の実存のあらゆる毛穴から放射されてい るかのようだ。彼のそばにいる者たち、幸運にも彼のそばにいる者たちは、ただただ驚くだろう。その死は生がそうあったよりも、はるかに荘厳だからだ。

だが、この種の死は、全面的に生きてきた者たち、恐れることなく、愚か者たちの言うことになど構わずに、オーガズミックに生きてきた者たちにだけ起こる。愚 か者たちはそれについては何も知らない。

死の恐怖は三つの中で一番単純だ。あなたは最初のふたつを解消すればいい。それから、その人に死は生の終わりではないと告げなさい。もしあなたが深く瞑想 し、自分の最奥の中心に到達したら、不意にあなたは永遠なる生の流れを見いだすだろう。あなたの実存には多くの形があったが、あなたはただ同じだ。

 

だが、 それはたんなる信念であってはならないーそれを自分の体験にすることだ。

だから、ひとつのことを覚えておきなさい、あなたのセラピーグループは、ありきたりのセラピーであってはならない。

 

洗浄され、自分は何か学んだ、何か体験 したという感じは与えられたものの、一、二週間後にはまた元通りの自分になっている、といったものであってはならない。

 

これまで、世界のどこにも、全面的 に精神分析された人間はいない。何千という心理学者が精神分析を行ってきている。だが、それを完結したケースは、一つたりともない。それはシンプルに、彼 らが瞑想とまったく関わってこなかったためだ。瞑想なしには、あなたは表面にペンキを塗っているだけだ。それでは、現実は、同じままにとどまる。

セラピストは、瞑想を、セラピーの中心として紹介しなくてはならない。

 

他のすべては、その周辺で動いていく。そうできたら、私たちは、セラピーを本当に価 値あるものにできたということだ。そうしたら、それは、ただ、病んでいる人、何かの形で精神的にバランスを崩している人、恐怖や嫉妬や暴力を感じている人 たちのためだけのものではない。

 

それは、セラピーの陰(ネガティブ)のパートだ。私たちのセラピーは、その人の個人性を取り戻し、彼に完全さ、結晶化を与 えるものであるべきだ、そうしたら、彼はけして死を恐れることはない。

 

ひとたび死の恐怖が消えたら、他のすべての恐怖は小さなものだ。それらは、死の恐怖 を追って、消えていく。私たちは、人々に、すべての宗教の教えに反して、どのように全面的に、全体として生きるかを教える。彼らは放棄をもとめる、私は歓 びを教える。(OSHO)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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