ユニティ・インスティテュート・メルマガより 転載
私たちは毎日呼吸をすることで生きているよう に、7つのチャクラの呼吸をして生きています。 その7つのチャクラと身体の呼吸のリズムを知 ることによって、自分自身について知ることが でき、人生にも調和をもたらすことができよう になっていきます。 そして、それらのエネルギーに気づいていくよ うになることで、人生の究極の真理も明かされ ていくようになります。 私たちが呼吸をしているのは、単に酸素を取り 入れて二酸化炭素を排出しているだけではなく、 その呼吸とともにプラーナという見えない命の エネルギーを取り入れているのです。 エネルギーは陰陽の対極の間を流れます。 それはちょうど電気のエネルギーがプラスと マイナスの間を流れ、磁石の磁力がN極とS極 の極性を持っているようなもので、エネルギー は常に対極の間で存在するという法則がある からです。 「呼吸」という一つの言葉担っていますが、 実際は、吸う息と吐く息でできています。 それぞれは正反対のエネルギーで、吸う息が 誕生だとすれば、吐く息(呼気)は死に例え られます。 息を吸うときに誕生して、息を吐くときに死 んでいくようなものです。 この一呼吸の間に生と死を体験しているよ うなものです。 このように、肉体においては、生命エネル ギーは呼吸の現象として現れています。 同じように7つのチャクラも呼吸をしています。 そして、7つのチャクラはそれぞれに対応する 身体を持っています。 それらは肉体、エーテル体、アストラル体、 メンタル体、スピリチャル体、コズミック体、 ニルヴァニック体と一般には言われています。 肉体の対極のエネルギーが呼吸だとすれば、 第二身体のエーテル体では好きと嫌いのエネ ルギー、愛することと反発する(憎む)エネ ルギーとして現れます。 誰かを愛すると、ある時点で必ず憎むことに なります。 なぜなら、生命エネルギーは一つの極だけでは 存在することはできないからです。 恋人が愛し合っては憎しみあって別れたり、 最も愛し愛されていたはずの親子関係で骨肉 の争いをしたり。 骨の髄まで愛し合っていたカップルが、骨の 髄まで憎しみあったりもします。 だから、「愛憎」というのは「呼吸」と同じ ように、一つのエネルギーの流れなのです。 親友が敵になったり、かつては敵だった者が 友になったり。 それはエネルギーの循環として起こる現象と も言えます。 「いや、そんなことはない」って思いたいで すが、自分の微妙なエネルギーの流れをよく 観察していれば、多かれ少なかれ、そういう リズムがあることにも気付くはずです。 どんなに愛する人と一緒にいても、どこかで フラストレーションを感じることがあったり、 一人になりたいと思う瞬間もあるはずです。 愛憎という言葉がつくと、愛は良くて憎しみは 悪いと言うような、良し悪しの判断がくっつく ので、いつも愛だけでいたいと思います。 あるいは、愛することはよくて、憎むことは 悪い、なので憎まないようにしようと思います。 しかし、愛と憎しみは、エネルギー的には一つ の現象です。 なのに、憎むことは悪いことだと思うと、それ を抑圧したり、見ないようにしようとします。 しかし、愛憎とは言っても、エネルギー的に 見れば、それは単に引き付け合うエネルギー と反発するエネルギーのことにすぎません。 そのことに気づけば、愛や憎しみがあるとき にも、それをただエネルギーの現象だというこ とに気づけば、それを観照することができる ようになってきます。 そうすると、物事はやってきては去っていく だけで、吸う息に執着することもなければ、 吐く息に執着することもなくなります。 そうするとエネルギーは自然に流れるように なります。 愛することだけに執着してそれを手放すこと に反発しすぎると、その反動が大きくなって、 取り返しのつかない憎しみになってしまった りします。 例え、恋人にフラれるようなことがあっても、 そのことに必要以上に捉われなければ、別れ ても良き友人でいることができたりもします。 第二身体の呼吸、すなわち、愛憎や好きと嫌 いのエネルギーの流れに気づくことができる ようになり、観照者となることができるよう になると、それにとらわれることなく、それ らを超えていくことができるようになってき ます。 そうすると第二身体の感情のエネルギーは自 然に流れ、健康体でいることが出来るように なります。 感情に飲み込まれたり、傷ついたりすること もなくなっていきます。 そうすると、第三身体のエネルギーにも気づ くようになります。 第三身体はアストラル体で「磁力」のエネル ギーです。 それは「パワフル」と「無力」という呼吸の 流れです。 あるときには希望に満ち、あるときには絶望 に襲われ。 またあるときには自信に満ち、あるときには 自信を喪失する。 そういう波があるのも、第三身体の呼吸のリ ズムゆえのことです。 困難なことに挑戦するとき、あるいは冷たい 水に飛び込むときや重い石を持ち上げると きに、息を吸い込むんで息を詰めるのは、磁 力としてのパワーをもたらすためなのです。 それは第三チャクラ、第三身体のパワーに関 連しています。 第四身体はメンタル体です。 思考が入ってきては、出て行きます。 「思考の流入」と「思考の流出」すると いうエネルギーの流れです。 「思考の流入」は独創的な思考が生まれるとき で、「思考の流出」は不能となるときです。 OSHO はそのエネルギーの流れについて、次の ように語っています。 「独創的な思考が生まれるときには、そこで呼 吸が止まる。それは単に対応する現象なのだ。 流出する思考の中では何も生まれない。それ は単に死んでいる。 しかしあなたが、思考が入ってきて、出ていく のに気づくようになると、第五身体を知ること ができる。 第四身体までは、ものごとは理解するのに難し いわけではない。それは、理解の基礎となるな んらかの体験があるからだ。 第四を超えると、ものごとは非常に奇妙になっ てくる − しかし、それでも何か理解できる ことはある。そして第四身体を超越すると、も っと理解できるようになる。 第五身体の中では − なんと言ったらよいだ ろう? 第五身体の大気は命だ − ちょうど、思考や、 息や磁力や愛と憎しみが、下位の身体の大気で あるのと同じように。 第五身体にとっては、命そのものがその大気な のだ。 だから第五においては、流入は命の瞬間であり、 流出は、死の瞬間だ。 第五において、あなたは、命はあなたの中にあ るものではないことに気づく。 あなたの中に入ってきて、あなたから出ていく。 命そのものはあなたの中にない。それはちょう ど呼吸のように、あなたの中に入ってきて、あ なたから出ていく。 だからこそ、息とプラーナが同義になったのだ − 第五身体のおかげで。 第五身体の中で、プラーナという言葉は意味深い。 やってくるのが命で、出ていくのも命だ。 そしてだからこそ、死への恐怖が絶え間なく私た ちを付け回すのだ。 死が近くにあり、曲がり角で待っていることに、 あなたはいつでも気づいている。それはいつで もそこにいて待っている。 この死がいつでもあなたを待っているという感覚 − この不安感、死、暗闇の感覚 − それは第 五身体にかかわっている。 これはとても暗い、とてもぼんやりとしたフィー リングだ、というのもあなたは完全に気づいてい るわけではないからだ。 あなたが第五身体まできて、それに気づくように なると、生と死は、第五身体の呼吸に過ぎないこ とを知る − 入ってきては出ていく。 そしてそのことに気づいたとき、あなたは死ぬこ とができないことを知る、なぜなら、死は内在的 な現象ではないから。生もまたそうだ。 生も死もどちらも、あなたに対して起こっている 外側の現象なのだ。 あなたは一度として生きていたことはないし、一度 として死んだこともないのだ; あなたはその両方を完全に超えている存在なのだ。 しかしこの超越の感覚は、第五身体の命の力と死 の力に気づいたときに、初めてやってくるものだ。」 以上 「チャクラブック」OSHO 参照 チャクラのシステムを知ることは、人間のエネルギ
ーのマップを知ることです。 そのエネルギーのマップを知ることによって、自分 自身についてより深く知ることができるようになり、 人生で起こるものごとについての理解が深まります。