top of page
ART
2006年頃、友人のイギリス人アーティストのSIDENAに手ほどきを受けて、絵画に目覚めた。部屋の一室には、いつも画材があって、何時でも描きたくなったら描けるようにする。その頃は、お酒を浴びるほど飲んで、自分の苦しみをひたすら絵にぶつける。最愛の彼女と別れたばかりの時だった。先生からは、コラージュを描けと勧められ、精神の危機に向き合った。シデナの絵のような美しい、瞑想的な絵を描きたかったが、どうしようもなかった。2007年冬には、コラージュを描き上げて、それ以来、描いていない。カタルシスの絵は終わり、次のモチーフが浮かばなかった。お酒も、ばったり飲まなくなった。有名なセラピストであるサガプリアに言わせれば、僕の女性性は、アーティストで絵描きだと言うが、まだ絵描きにはなっていない。しかし、とにかく当時は、絵を描くことで、あの日々を乗り切った。主観芸術の嘔吐の作品だが、こういう形のセラピーもあり得る見本として。
主観芸術と客観芸術
主観芸術は一種の嘔吐だ。自分のなかにくだらないことがいっぱい詰まってしまい、それを取り除きたい――。そして、それを取り除く唯一の方法は、それをキャンバスに、楽器に吐き出すことだ。客観芸術はひじょうに深い沈黙から生まれている……。それは表現、この沈黙は誰のなかにもありうることをあなたに伝えるものといっていい。客観芸術にはメッセージがある。主観芸術には狂気がある。OSHO
自然な事実を何のとがめもなく受け入れる瞑想60Artist Name
00:00 / 06:32
この瞑想を知っていたわけではないけれど、これをするしかなかった苦しい日々だった。
bottom of page