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脳を洗う(長文・一気読み用)

シベリッシュ瞑想を流行らしたい。と思ったのは、二年前にトルコ料理屋さんの二階を借りて、DOST CAFE というスペースを運営していた時からだ。

カフェと名前はつけたけれど、実際にやっていたことは、週に一回の瞑想会がメインの場だった。あれこれとイベントを試行錯誤したけれど、結局は瞑想をやる場に落ち着いた。電車の音ががたがたして揺れるし、下のレストランからはトルコ人の大きな接客の声が聞こえてくるし、汚れたペルシャ絨毯で寝転ぶのも抵抗あるひともたくさんいたが、薄暗いバーカウンターのあるスペースで、瞑想が終わった後に、友人から借り受けた珈琲マシーンで出した珈琲を飲むと、不思議にまったりしたものだ。

一般的女子には受けない環境だったが、女子にこびない男の子の秘密基地みたいで、ある種のひとにはたまらない雰囲気のある場所だった。

なぜか防音になってるわけでもないのに、大きな音で音楽をかけても苦情はない場所だった。

それで、ダイナミック瞑想はジャンプができないし、トルコ料理屋の二階でイスラム風インテリアだから、というので、ここをジベリッシュ瞑想の拠点にしよと思いついた。

シベリツシュというのはでたらめ言葉の英語の俗語だが、それは古代スーフィーのひとたちの瞑想だったという。イスラム風インテリアからさっそくイスラム教やスーフィズムにかぶれた僕は、例によって文献を何十冊も借りて、すっかりトルコ・イスラムが キテル と自分を洗脳した。

世を忍ぶ神秘家たち(不良サニヤシン)の隠れ家にぴったりの場所で、世間から隠れて瞑想したスーフィーたちの瞑想を現代に蘇らしたい。そして、近所の商店街の親父や、サラリーマンが会社帰りに、あるいは登校拒否時が引きこもりから抜け出して、でらため言葉を喋ってうっぷんを晴らし、沈黙してハートを交感する。そんな秘密の寺院のような場所を夢想した。

イスラム教を流行らせようという趣旨に、無心論者のトルコ人オーナーも興味を持ち、瞑想の前後には無理して発案させたベジタリアン用トルコ料理を僕らも食べて、ジベリッシュ瞑想に力を入れようとがんばった。

そんなある日のこと、チャクラジベリッシュ瞑想をしている時に、そのことから距離が生まれた。

第七チャクラのジベリッシュをしている時に、普通だったら宇宙語のような高音をぺちゃくちゃ喋るのだが、その時はろうろうとコーランのような歌を繰り返し叫び、朗誦した。朗誦しててあまりにも見事だから、自分でも歌いながら、耳で聞き惚れている。

それが距離を生んだんだろう。

「あ、イスラム教に同一化してしまっている」と気づいてしまった。

トルコ料理屋の二階の物置くらいに潜んでいたスーフィー行者の霊にでも乗っ取られていたんだろうか(笑) 気づいてしまったら、あっけなく僕のイスラムブームは去った。

もともと禅にすごく染まっているし、だいいちサニヤシンなのである。しかし研究すればするほどイスラム教(スーフィズム)と禅は近い気もしたし、トルコ料理屋の二階のこのスペースを世間に広めるのにやっきになっていたから、僕の頭の中はイスラム一色になっていたのだ。

が、あっけなくチャクラジベリッシュ瞑想の一回で、染まってた色が落ちた。

すごいなあ~。ほんとに脳みそをじゃぶじゃぶ洗うみたいに、無意識の洗脳が落ちていく(というか、これぞ本当の洗脳 脳を洗う だ。

結局、僕のブームも去るし、オーナーとも色々あって、あっけなく一年くらいでドストカフェは閉じた。もうジベリッュだけでない毎週のOSHOの瞑想を楽しみにしてくれるひともいたが、近所の商店街の親父やサラリーマンが会社帰りに瞑想しに通う場所にはならず、ひとりだけオーナーの紹介でレストランに来てた女の子が二階に上がって瞑想するようになって、その子が、新しい夙川で見つけた場所での瞑想会にやってきた。

今度の場所は完全防音の個人宅のスタジオである。近所のひとの手前、入り口の前でたむろしてしゃべったりしないようにとの注意があるので、昨日は参加者もさらりと解散した。それもまたやはり世を忍ぶ神秘家たちの秘密倶楽部のような感じでいい。

完全防音だから、やはりジベリッシュ瞑想を定期的にする場所にしたいと思っている。

二年前よりも、時代はさらに物騒になっていて、大声でストレス解消する必要があるのではないか。近所に商店街の親父や、会社帰りのサラリーマンがふらりと立ち寄ったり、登校拒否児がひきこもりから出てくるには、まずメッセージをもらって、参加希望者に道順を教えなくてはいけないからハードルは少し高い。個人宅だから住所を公開できないのだ。

しかし一度来たら誰でもすぐわかる便利な場所にそのスタジオはある。駅からも近い。

なんといっても僕は自転車で10分間、夙川の緑の街路樹なかを走ればまっすぐ到着する。音源の入ったiphon だけもって自転車で通えるのは、僕にとってはすばらしい進化だと、この道何十年の僕はしみじみする(この道とは瞑想会を開く道)

公民館を予約して、重いラジカセとカセットテープの束をかついで毎週毎週、瞑想会に通った頃に比べたら天国だ。ドストカフェも近かったが、それでも電車で通ったんだから、今度の場所は便利だ。

僕は便利だったり、簡単だったり、早かったりすることが好きだから、チャクラジベリッシュ瞑想が好きなのかもしれない。だってもしかしたら過去生からの同一化が蘇ったからの、突然のイスラムブームだったのかもしれないのを、一発で解放してくれた。なにしろドストカフェのあの雰囲気とインテリアは見事に僕にマッチしていたし、高名なサイキッカーセラピストのサガプリアにも何度も「あなたはスーフィーだ」と何度も言われていた。

だからなのかやっぱり数ある瞑想のなかで、ジベリッシュ瞑想が一番好きだ。それはイスラムブームからあっけなく非同一化したのちの今でもそうである。

だが、もうドストカフェの時のように、トルコ・イスラム風とは関係なく、シンプルにジベリッシュをできる。スピーカーとか機材とか楽器とか、意外と物がいっばいの場所だけど、なんといっても完全防音の部屋である。元セラピストで太っ腹のKさんが、自宅のスタジオを若い友達に貸して、ご自身はドラムの練習などに使っているのだが、旧友のつてで今回お借りできることになった。

今度こそ、ジベリッシュ瞑想を流行らしたい。せっかくマインドフルネス瞑想が流行って、多くのひとが瞑想に関心を持っているのに、現代人が静かに呼吸を見つめることから初めたとしてもマインドがフルになって回転して、ぐるぐるするか、眠ってしまうのが落ちだ。ジベリッシュ瞑想はマインドフルどころか、ノーマインドになる瞑想だし、カタルシスの効果があるだけでなく、実は第五チャクラに効くから、思い込みから解放されるのに役に立つ。

さらには気づきが増して、自己同一化が減っていく。定年退職して、アイデンティティーのゆらぎに苦しんでる熟年世代なんか来てくれたらばっちりなのだが、残念ながらこの年になるまで会社勤めしたことがない僕には人脈がない(笑)

しかし今の世の中、左翼も右翼もコミュニストも保守主義者も、ヒッピーもアナキストも誰も彼も、古い自分の型にはまった考え方と生き方、生活、信念をがっちり掴んではなさなかったら放さないほど苦しく難しいことが待っているだろうから、万人向きだし、必要な瞑想だ。

メタフィジックスの基本原則は

:あなたが自己同一化している程度は、あなたの気づきのレベルと反比例しています。 気づきが少なければ少ないほど、より自己同一化します。 気づきが増えれば増えるほど、より同一化しなくなります。」 サトルボディヒーリングより

自己同一化しているものがあればあるほど、この変化の時代には苦しいことがあるのだから、ちょっと狭いが完全防音の部屋に集まって、週に一度でも汚染された脳をじゃぶじゃぶ洗いましょう。


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