脳を洗う・ジベリッシュ瞑想のすすめ・その3.
結局、僕のブームも去るし、オーナーとも色々あって、 あっけなく一年くらいでドストカフェは閉じた。もうジベリッュだけでない毎週のOSHOの瞑想を楽しみにしてくれるひともいたが、近所の商店街の親父やサ ラリーマンが会社帰りに瞑想しに通う場所にはならず、しかしオーナーの紹介でレストランに来てた女の子が二階に上がって瞑想するようになって、その子 が、今度の新しい夙川で見つけた場所での瞑想会にやってきてくれた。
今度の場所は完全防音の個人宅のスタジオである。近所のひとの手前、入り口の前でたむろしてしゃべったりしないようにとの注意があるので、昨日は参加者もさらりと解散した。それもまたやはり世を忍ぶ神秘家たちの秘密倶楽部のような感じでいい。
完全防音だから、やはりジベリッシュ瞑想を定期的にする場所にしたいと思っている。
今度のスペースはトルコ風でもなんでもない、個人のスタジオ。大きなソファーでゆったりと、あるいは座布団で瞑想できます。
二年前よりも、時代はさらに物騒になっていて、大声でストレス解消する必要があるのではないか。近所に商店街の親父や、会社帰りのサラリーマンがふらりと立 ち寄ったり、登校拒否児がひきこもりから出てくるには、まずメッセージをもらって、参加希望者に道順を教えなくてはいけないからハードルは少し高い。個人 宅だから住所を公開できないのだ。
しかし一度来たら誰でもすぐわかる便利な場所にそのスタジオはある。駅からも近い。
なんといっても僕は自転車で10分間、夙川の緑の街路樹なかを走ればまっすぐ到着する。音源の入ったiphon だけもって自転車で通えるのは、僕にとってはすばらしい進化だと、この道何十年の僕はしみじみする(この道とは瞑想会を開く道・笑)
公民館を予約して、重いラジカセとカセットテープの束をかついで毎週毎週、瞑想会に通った頃に比べたら天国だ。ドストカフェも近かったが、それでも電車で通ったんだから、今度の場所は便利だ。
僕 は便利だったり、簡単だったり、早かったりすることが好きだから、チャクラジベリッシュ瞑想が好きなのかもしれない。だってもしかしたら過去生からの同一 化が蘇ったからの、突然のイスラムブームだったのかもしれないのを、一発で解放してくれた。なにしろドストカフェのあの雰囲気とインテリアは見事に僕に マッチしていたし、高名なサイキッカーセラピストのサガプリアにも何度も「あなたはスーフィーだ」と何度も言われていた。
「スーフィズムというのは、自分の心を磨いて、世界の真理へと近づいていき、
最後にはアッラーと一体になるという修行です。そのためには、心の中に湧い
てく るいろいろな雑念を捨てていって、最後に「私自身」という意識さえも全
部捨て去らなくてはなりません。仏教で「無我の境地」と呼ぶような、こうし
た心の状 態を、イスラームでは「ファナー(消滅)」と呼びます。赤堀雅幸」
だからなのかやっぱり数ある瞑想のなかで、ジベリッシュ瞑想が一番好きだ。それはイスラムブームからあっけなく非同一化したのちの今でもそうである。
だ が、もうドストカフェの時のように、トルコ・イスラム風とは関係なく、シンプルにジベリッシュをできる。スピーカーとか機材とか楽器とか、意外と物がいっ ばいの場所だけど、なんといっても完全防音の部屋である。元セラピストで太っ腹のKさんが、自宅のスタジオを若い友達に貸して、ご自身はドラムの練習など に使っているのだが、旧友のつてで今回お借りできることになった。
スーフィズムは頭に属するものではなく、ハートに属するものだ。
スーフィズムは協会の礼拝ではない。それはどんな宗教にも属さない。
だが、あらゆる宗教 は、生気に満ちて生きている限り、スーフィズム
に属している。それは一種特別な質を持った意識の広大な広がりのこ
とだ。どうやってそれは起こるのだろう? どうやって人はひとりの
スーフィーになるのだろう?特別な組織に属することによってではなく、
頭からハートに向かって落ちていくことで、
人はスーフィーに なっていく。OSHO :Until you die
写真はなつかしのドストカフェで踊るスーフィーのワーリング