むちゃくちゃ言葉を使うさまざまな方法
ジベリッシュをたどってネットの森を検索しているうちに、深い森に迷ってしまった。
OSHOは「ジベリッシュを使いなさい。意味のある言葉を話さないこと、あなたの知っている 言語を話してはいけない。もし中国語を知らないなら、中国語を話しなさい。日本語 を知らないなら、日本語を話しなさい。ドイツ語を知っているなら、ドイツ語を話してはいけない。」と言っています。
ジベリッシュをすることで、
「初めて自由を手にしなさい。あらゆる鳥たちが持っているのと同じ自由を。論理性 や理由づけ、意味や重要性などは気にせずに、ちょうど、鳥たちがそうしているよう に、ただあなたのマインドにやってくるものを許しなさい。」「Live Zen」より抜粋 と。
イ ンドのブッダホールでこの講話をライブで聞いた覚えがあるが、中国語でもなく、日本語でもなく、ドイツ語でもなく、つまりむちゃくちゃ言葉、デタラメ言 葉、で、それはジベリッシュ(gibberish)という英語の日本語訳として、たわ言、わけのわからない(早口の)おしゃべり、ちんぷんかんぷん等と書 かれている通り。
さて、そのジベリッシュをジブリッシュと呼んで、笑いヨガのひとたちがやっているのは理解できた。
インプロとか演劇関係者が非言語的コミュニケーションの練習として使っているのもわかる。
さてでは、ライドランゲージとか、宇宙語(チャネリング)とかいって、一部のニューエイジに流行ってるらしいものは何か?これは単にジベリッシュしてるのと何が違うのか? ライトランゲージ伝授とかトレーニングとかもある。
さらに赤ちゃんの育児相談で、「宇宙語しか喋らないのですがどうしましょう」といった相談がけっこう多いらしく、これはこれで興味深い。
そして、キリスト教のなかでは異言(いげん)と言って、けっこうポピュラーな現象のようだが、これを調べだすとかなり深みにはまりそうだ。異言の歴史は古く、肯定派も否定派もいる。
ジベリッシュ瞑想との違いを強調されてはいるが、OSHOデヴァヴァニ瞑想と言って、この異言を語ることが含まれるものがある。
肯定派からも否定派からも、OSHOのところで気楽に異言を喋ってるのはけしからんことだと言われるだろう。
OSHOは異言について「それはすばらしい方法」とは言っいるが、それは「無意識の中へと浸透する最も深いものの一つだ」と言っていて、「心の意識的な部分をとても深くくつろがせるため」の ものだと言っいる。つまりそれは「デヴァヴァ二瞑想=神の声の瞑想」というネーミングではあるが、意識を休ませ無意識にくつろぐためのもの、と言ってるか ら決して超意識のものではないと定義していて、それを聞いたらさらに異言肯定派は青くなり、否定派もだからそんなことはするなと言うだろう。
この意識的な心を休ませるというあたりが、ライトランゲージにも当てはまると思う。つまりそれらはすべて無意識からの表現だということ(だからライトランゲージを翻訳するとかは笑止なのだけど、異言の翻訳というのもあるらしい)
ラフターヨガのジブリッシュも、演劇のエクササイズも、ライトランゲージも、宇宙語も、異言も、やってることそれ自体はたぶんそんなに変わらない。ジベリッシュ瞑想とデヴァヴァニ瞑想も境界が甘い(少なくとも僕には)
しかしただデタラメ言葉で喋るだけでなく、その後の沈黙の時間がセットになっているかどうかが決定的な違いだ。
チャクラジベリッシュ瞑想CDの解説でジベリッシュのあと、「楽な姿勢で座るか、横になります。では、沈黙の中で休んでください」というコマラの指示では、大切なことを言ってないと思う。「楽な姿勢で座るか、横になります。では、沈黙の中で休みながら、気づいてください」と言うべきだ。
言ったからといって気づけるわけではないが・・・(未完的完了)
デヴァヴァ二瞑想について
OSHO が「デヴァヴァ二瞑想」でのやり方として指導しているのは、この異言のことで、同じく意味のなさない音声を発するのだが、それは舌によるラティハン(自動 運動)で、「ジベリッシュとは区別されます。」とされる。「ジベリッシュはマインドとその動きのすべてを放り出すことですが、ラ ティハンは、発散、放出ではなく、「起こるがままにまかせること」、「自分が神のエネルギーの媒体になること」です。ジベリッシュは為すこと、ラティハン はまかせることです。」と解説にある。
と いうことでデヴァヴァ二瞑想の場合は、発散放出でなく静かにやることが多かったが、インドのグジャラート地方の瞑想センターでインド人たちと混ざってやっ た時は、かなり激しく大声も出していた。だから声の大きさではなくて、自分からやるか、自然にまかせて表現するかがポイントになるのだが、だがその違いは かなりあいまいだ。
OSHO はデヴァヴァ二瞑想に関してははっきりと、「・・・心に新しい音が湧いてくるのを待つがいい。ただ覚えておくべきことは、その音声が自分の知っている言語 であってはならないということだ。ただ意識を取り去って無意識に話をさせるだけで、音や意味のない言葉が出てくるようになる。無意識が話すときには、それ 自体は言葉を知らない。これはきわ めて古い方法だ。それは旧約聖書にはじまる。当時は「異言」と呼ばれていた。アメリカのある教会ではいまでも用いられ、「舌でする話」と呼ばれている。こ れはすばらしい方法だ。」と言ってる。