個人異言=ジベリッシュの医学的効用
異言というものとジベリッシュは区別するべきなんだろう。 異言を語るステージのあるOSHOデヴァヴァニ瞑想では、「デヴァヴァニとは、瞑想者を通して語られる「神の声」という意味です。瞑想者は空っぽの器、ひとつの通路になります。この瞑想は「舌によるラティハン」です。 デヴァヴァ二、すわなち、舌によるラティハンとは、ジベリッシュとは区別されます。ジ ベリッシュはマインドとその動きのすべてを放り出すことですが、ラティハンは、発散、放出ではなく、「起こるがままにまかせること」、「自分が神のエネル ギーの媒体になること」です。ジベリッシュは為すこと、ラティハンはまかせることです。」と解説される。 しかしチャクラジベリッシュ瞑想の場合、ハートより上の方のチャクラになる従って、あるいは回数を重ねてくるとだんだん、ジベリッシュを為してるというより、声が出るのままに任せているという感じになる。 だからつまり人によっては、ジベリッシュをしながら、異言を喋ってることにもなっているということだろうか。 上田昌司牧師(新旭キリスト栄光教会牧師、島本キリスト福音教会名誉牧師、医師、医学博士、現在勤務医)のブログを読むと、 「ペンシルベニア大学放射線科のニューバーグ博士は、異言を語る人の脳のスキャン画像を調べて、個人異言は前頭葉を活性化しない、すなわち前頭葉を刺激しないことを報告している。 むしろ前頭葉を鎮静化することを認めている。 前頭葉は感情や思考や理性や人格をつかさどっている。 だから異言を語ることで、前頭葉が鎮静化すれば、感情をコントロールでき、ノイローゼや躁うつ病をコントロールでき、薬物依存症やギャンブル依存症からの離脱に大きな助けになる。 実際、1960年代に、ニューヨークの下町の麻薬中毒の若者たちが、デイビッド・ウイルカーソン牧師によって救出されたとき、彼らは異言を語ることによって、いともたやすく麻薬中毒から離脱することができた。 また麻薬がほしくなったとき、教会に飛び込んで異言で祈れば、麻薬の禁断症状を克服できたと語っている。 今日も、異言を語る人には精神病者がいないとアメリカのある教団が報告している。 精神病にならないのか、なっても治ってしまうのか、それは分かっていないが。 その両方が考えられる。」とある。 デイビッド・ウイルカーソン牧師の依存症更生施設のティーンチャレンジで実際にどのように異言を取り入れているのかは、調べられなかったし、日本の依存症更生施設のティーンチャレンジのプログラムを読むと、依存症からキリスト教に依存させてるようで、異言を使ってるようには思えないが、実際のところはわからない。 上田昌司牧師は、
①聖霊異言 ②集会異言 ③個人異言と分けていて、われわれがデヴァヴァ二瞑想やジベリッシュ瞑想で喋っているのは、この三番目の個人異言というやつかもしれない。 上田牧師は個人異言を大切に考えていて、それは健康にも精神的健康にもいいという。 「自分の意志で語る異言は全部個人異言だ。 個人異言は自家用の異言だ。 だからいくら語っても人の迷惑にはならない。 前頭葉は刺激されないが、記憶中枢や聴覚中枢はフル回転している。 だから異言を語ると記憶力がよくなる。 認知症の予防になる。 以前語った異言を全部覚えている。 感情の発散ができる。 腹が立った時、異言を語ると風船の空気が抜けてゆくように、怒りが静まってゆく。 読者の皆さんも、個人異言を勉強し、マスターして強い人間になっていただきたい。」 とある。 滋賀の方のようだし、一度会いに行って、色々とお話をしてみたくなった。