主人とは、観照しているあなたの自己だ。
だが、私たちは客と同化してしまう。実際には、主人はひどく客に占拠されていて、忘れてしまう。
ムラ・ナスルディンは何人かの友人と何人かの見知らぬ人たちのためにパーティーを開いた。そのパーティーはひどく退屈で、夜中も無駄に過ぎ、さらに続いて いた。そこで、ある見知らぬ人が、ムラが主人だということを知らずに、彼に言う。「こんなパーティーは、こんなばかげたのは初めてです。いつまでたっても 終わりそうにないし、私は飽き飽きしてきたので、もうおいとましたいですよ」
ムラは言う。「あなたが言っていることは、私があなたに言お うと思っていたことですよ。私自身、こんなに退屈でばかげたパーティーは初めてなのですが、あなたほど勇気がありませんでね。私もおいとまして、逃げ出そ うと思っていたのです」。そこで、彼らはふたりして逃げ出した。
そして、通りでムラは思い出して言う。「なにかおかしいですね。いま思い出したけど、私が主人なんですよ! そういうわけで、すみません、私は戻らなければいけません」
これが私たちみんなに起こっている。主人が消えている、主人があらゆる瞬間ごとに忘れられている。
主人とは、観照しているあなたの自己だ。痛みが来て、その後に楽しみが来る。幸せがあり、惨めさがある。そして、瞬間ごとに、何がやって来ようとも、あなたはそれと同化してしまう。あなたは客になる。主人を覚えておくがいい。客がいるときは、主人を覚えておきなさい。
客には実に多くのタイプがある——気持ちよかったり、嫌な感じだったり、好きな客、自分の客であって欲しくない客、いっしょに住みたい客、避けたい客——だが、すべて客だ。
主人を覚えておきなさい。絶えず主人を覚えておきなさい。主人に中心を据えているがいい。自分が主人であるということにとどまりなさい。そうなったら、分 離がある。そうなったら、隙間が、合い間がある——橋は壊されている。この橋が壊されるやいないや、放棄という現象が起こる。そうなったら、あなたはその なかにいるが、その一部ではない。そうなったら、あなたは客のなかにいても、依然として主人だ。あなたは客から逃げる必要はない——必要がない。
Osho, The Passion For the Impossibleより抜粋