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そのゼロはお前よりも大きくならなければならない

生命の歓喜(ダルシャン・ダイアリー)より。まるまるとしメガネをかけたインド人の弟子がOSHOに質問します。「ひどく空っぽな感じがします」と。空っぽさが受け容れられない・・と。

OSHO・・・カヴィア、お前はどうした? カヴィア・・・(丸々とした、眼鏡をかけたインド人サニヤシン)今朝から、この辺(胃袋のあたりを指して)が、ひどく空っぽな感じがして仕方ないんです。子供の頃から、私はいつもそれを恐怖だと思って、おびえ始めたものでした。でも今日はただそれを見守り始めました。けれど、それは依然として続いています。ハミング瞑想法やグリシャンカール瞑想の後でもこういうことがあります。体が悶えるようにあくびを始めて震え出すのです。 OSHO・・・ちょっと目を閉じて、それを起こらせてごらん。(カヴィアは柔らかく震える。震えが彼女の全身にやさしく波打っている) OSHO・・・ふむ、ふむ・・それは恐怖とは何の関係もない。お前はそれを恐れているかもしれないが、それは恐怖とはなんの関係もない。瞑想をし始める時にやって来るそれは「空(くう)」なのだ。もっともっとこの「空」が現われるのを許し、それを何かで埋めようとしないこと。 その空っぽな感覚そのものを愛しなさい。すると、この空っぽさの中から何かが現われ出るだろう。何かがその中に降り立つことだろう。お前は何かを受け容れる用意の整った子宮になろうとしているのだ。その為に、その空っぽさがある。だから心配はいらない。それについては喜んで、感謝しなさい。 この箱を持っていて、胃袋に空っぽさを感じたら、それをお腹の上に乗せるといい。それがお前をもっと空っぽにしてくれるだろう。全てとても上手くいっている。お前のエネルギーはほとばしっている。用意が整いつつある。ところが空っぽさというのは、いつも人々を恐がらせる、怯えさせる。それは我々が、空っぽさの可能性というものを知らないからだ。我々はその消極面しか知らない。「空っぽ」という言葉からして、まるで何かが抜けているような、消極的な感じを与える。 ※そこでOSHOは空の本性に触れ、いかに私達がそれに消極的なレッテルを貼りがちかを語っています。それは私達が今までに経験したどんなものとも全く違った経験だからです。けれども、それこそあらゆる瞑想の目指すところに他なりません。 OSHO・・・その感覚を許して、体全体が空っぽになるようにしてごらん。その空っぽさが自分より大きくなって、自分などその大いなる空の中の一微塵にすぎなくなってしまうだろう。今現在は、お前の方がその空を取り巻いている。お前という円の方が大きいのだ。空は大きな円の中の小さな輪っかにすぎない。それは完全に逆さまになるのが本当だ。空が大きな方の円になって、お前は中の小さな円になる。 「空」の方が自分より大きければ、たちまちその積極性は見て取れるだろう。そうすれば、その渋味のある美しさが分かるだろう。突如として、それはもう空ではない。それは「充足」だ。ただし何かがお前の中に降臨できるよりも先に、まずお前が空っぽにならなくてはいけない。 あらゆる有用なものは全て、あらゆる創造的なものは全て、「空」の中から現れ出ずる。神とは完璧な「空」、究極のゼロに他ならない。そしてお前は、神秘家達がゼロ体験と呼んで来たものの最初の体験をしようとしているのだ。しかし、そのゼロはお前よりも大きくならなければならない。それを許しなさい。ん?Good、カヴィア、Very good。 「生命の歓喜・DANCE YOUR WAY TO GOD」(めるくまーる社)より by mudito


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